愛の種まき『おんころletter2』web版(スクロールして読んでください)

※無断転載禁止

ご挨拶

『愛の種まき~おんころletter2』にお越しくださいましてありがとうございます。
今回は指定難病・ベーチェット病の闘病記を掲載させていただくことになりました。
製薬会社の研究者でもあった著者・Misaさんが罹患したのは20代。
周りの友人たちが仕事や結婚、出産など忙しく過ごしている時、彼女は病に立ち向かっていました。

闘病記にはMisaさんが経験した病気の症状や治療方法、使われた薬剤と効果・副反応などについてかなり詳細に記載され、その時々に感じた率直な気持ちも記されています。

同じ病に苦しむ方々へ少しでも知識を共有できたら、そして、未だ治療法が確立されていないベーチェット病の研究に少しでも貢献できたら。
そんな思いが込められた一級品の手記です。
ぜひ、ご一読くださいませ。

2022年3月

闘病記(ベーチェット病)

闘病記を初めて書きました。この10数年を改めて振り返ると、本当にたくさんの人に支えられて今生きているのだなと思いました。この場を借りて尽力してくださった医療従事者の方々、支えてくれている家族、友人に感謝の気持ちを伝えたいです。

難病患者の問題としてよく挙がる就労、妊娠・出産についても触れさせていただきました。 

私の場合は本当に情報がなく不安だったので、出産後はデータを成育医療研究センター等に送って欲しいと伝えています。今不安に思っている妊婦さんの気持ちが少しでも和らいでくれたら幸いです。 
Misa(闘病記あとがきより抜粋 )

★写真=著者撮影
桜が咲く時期に入院することが多く、病室の窓から見える桜を見て 「来年こそは直接桜を見るんだ」と思っていました。


 ※つづきは下へ 

闘病記(ベーチェット病)

●ベーチェット病と診断されるまで

「頭が痛い。」

そう言って、毎日市販の鎮痛剤を飲んでいたのは12年前だ。

関西の大学を卒業して、希望していた製薬会社の研究者として第一歩を踏み出した時だった。自身の健康管理に疎い私は、慣れない環境で疲れているからだと思っていた。ただ、さすがに数か月も微熱や頭痛が続いたため、近所の内科を受診した。

『仮面うつ病』と診断され、抗うつ剤が処方された。2か月ほど飲んでみるも微熱や頭痛は良くならなかったので、勝手に薬をやめた。(この時は危険性も分かっていなかったのでこのような対応をしました。薬を止める時は必ず医師に相談してください。)

次第に体重も減ってきた。

この時は「(学生の時と比べて)お菓子を食べられる時間が減ったからかな。ラッキー☆」位にしか思っていなかった。

今思えば、体の中で炎症があり体重減少につながっていたのだろう。

この時は歩いている時に気を失いそうになったり、誰もいないエレベーターで座り込んだりしていた。変だなとは思ったが、疲れているのだと思っていた。

 

2010年7月、仕事中に激しい腹痛と吐き気に襲われた。

隣の席の先輩もお腹が痛く、診療所に行ってきたと言っていたので、昼休みの時間を利用して会社の診療所を受診した。しばらくベッドで横にならせてもらい、少し良くなった頃に仕事に戻った。この時は風邪がうつったと思っていた。

その後、朝に限って黒いどろどろの便が出るようになった。臭いも少し変とは思ったが、特に気にしていなかった。

 

2011年4月、また仕事中に激しい腹痛に襲われ、会社の診療所へ行った。

この時の担当医はA大学病院の循環器内科のN医師だった。ここが、私のラッキーポイントだったと思う。N医師は血液検査をしてくれ、数日後、検査結果について説明があった。

血液検査ではCRP(炎症を示すマーカー。この数値が高いと炎症の度合いも高い)が陽性で、血管雑音も見つかった。(血管の音を聞いてくれたのは、丁寧な診察をしてくれたことと循環器内科の医師であったことが大きいと思います。)

黒いドロドロの便は「タール便」と言って血便の可能性が高いことも教えてもらった。

「大動脈炎症候群(高安病)」「クローン病」「潰瘍性大腸炎」の3つの病気の可能性を示され、特に大動脈炎症候群が疑わしいと告げられた。

すぐにA大学病院で検査をすることになった。

ただ、この時私は数か月後には関東へ引っ越すことが決まっていた為、入院して詳しい検査をすることができなかった。

「せめて少しでも検査を」とのことで造影CTと大腸内視鏡の検査をすることになった。

造影CTは造影剤を点滴しCTを撮る。通常のCTとは異なり、血管の状態を3Dで見ることができる。(後から知りましたが、3Dまで撮ってくれたのはとても丁寧な対応だったみたいです。)

検査が終わった夜、足に発疹を見つけた。痒みもあり、病院に電話をすると抗アレルギー薬を飲むよう指示された。

朝起きると息苦しい。近所の内科で診察してもらうと「咽頭浮腫」と診断された。どうやら私は造影剤にアレルギーがあったようだ。(これが後々問題になってきます。)

数日後、N医師から検査結果を聞くと、腹腔動脈というお腹の大きな血管が狭くなっていることが分かった。ご飯を食べると気持ちが悪くなることがあったが、これが原因らしい。

腹腔動脈は胃や腸へ血液を送っている。この血管が狭くなっていると、食事を取ると血流が足りなくなり吐き気や腹痛を引き起こすそうだ。ちょうど心筋梗塞がお腹の中で起きている状態だと説明を受けた。

大腸内視鏡の検査は別の総合病院で行った。前日に検査食を食べないといけないことが怖かった。前日夜に下剤を飲むのも怖かった。検査直前に渡された2Lの下剤を見て絶句した。

今ではもう慣れっこだが、当時は「最悪」の言葉以外浮かばなかった。

大腸内視鏡の検査結果はびらんが見つかっただけで、大きな潰瘍等は見つからなかった。

造影CTと大腸内視鏡の2つの結果を持って、私は関東のB大学病院を受診した。(同時に引っ越しも完了しました。)

膠原病の人は、何年も体調不良に悩まされてやっと病気が分かる人も珍しくない。私も体調不良、倦怠感に悩まされ、その度に「自分が怠け者だからだろうか。みんなはこれ位普通で、自分が大げさにしんどいと感じているだけなのだろうか」と悩んだものだった。

血管雑音を見つけてくれたN医師には本当に感謝している。

 

場所が変わって関東のB大学病院の消化器内科、リウマチ科を受診した。B大学病院にしたのはカプセル内視鏡という、カプセルを飲んで小腸の検査ができる病院だったからだ。

リウマチ科の初診は若い女医さんが丁寧に診察をしてくれた。

これで終わりかと思ったら、次は別の部屋で診察だった。扉を開けた瞬間圧倒された。

椅子に座る医師1名。それを取り囲むようにずらーっと並んだ医師たち。狭い診察室は人、人、人でいっぱいになっていた。(入りきれずに部屋から出ていた人もいました。)

この時も大動脈炎症候群と言われ、入院が必要だと説明を受けて帰宅した。

 

●初めての入院

3週間予定の入院が始まった。(入院中、仕事は休職しています。)初めての入院は分からないことだらけだった。シャワーの入り方、洗濯のタイミング、回診があることさえ分からなかった。相部屋だったので、常に他人が同じ部屋にいるストレスも感じた。

加えて慣れない検査が立て続けに入った。二度とやりたくないと思っていた大腸内視鏡を再びやることになった時は、さすがに抵抗した。

「やらなくて済むようにと検査結果を持たせてもらったのに」と言ったが、結局必要な検査ということで何名かの医師から説得を受け、同意書にサインした。

腰椎穿刺(ルンバール。背中から髄液を取り出す検査)には、少し苦労した。というのも、こちらの検査、髄液を抜くので頭痛・吐き気の合併症が出る人がいる。私も合併症が出てしまい、1週間ほど寝たきりになった。寝ている時は全く症状がないが、起き上がると頭痛・吐き気が強く、とてもじゃないが座っていることができない。(何回検査しても合併症が出るので、体質なのだと思います。)

ある程度検査が進むと、一つの病名が口にされた。「ベーチェット病」。それは私には馴染みがない病で、言われてもピンとこなかった。

ある日、オレンジ色の包装に包まれた一つの薬が渡された。ベーチェット病の第一選択薬である『コルヒチン』だった。薬の色は水色で、飲む勇気が出なかった。手のひらに置かれた水色の錠剤をじっと見つめていたのを覚えている。

入院予定の3週間を過ぎ、6週間が経った頃、正式に「ベーチェット病」と告知され、指定難病申請の書類を受け取り退院した。

分かっていたはずなのに、告知された時は泣いた。なぜかは分からない。

今までずっと悩んできた体調不良が、「怠け者」ではないと分かってホッとしたはずなのに、なぜだか悲しかった。

 

●治療開始後も改善しない。そして再び入院。

入院期間と同じ期間は仕事を休むよう言われ、休職していた。通院はしていたが、経過観察が続く。特に症状が良くなっている実感はなかった。

痛みと不安で、段々と精神的に不安定になっていった。起きていると休みなく感じる腹痛、関節痛に「ずっと眠っていたい。もう起きていたくない」と思うようになった。

私としてはステロイドを使った強力な治療をして早く元気になりたかった。ただ運が悪いことに、私は病状がほとんど血液検査で分からないタイプだった。後に分かったことだが、潰瘍があってもCRPは上昇しなかった(小腸に症状が出る人は、このタイプがたびたびいるそうです。初めにCRPが陽性だったのは風邪の影響とたまたま血管の強い炎症が起きていたからかもしれないです)。医師は通常の外来では、血液検査の結果から情報を得ている。ステロイドを処方できないのは当然のことだったと思う。ただ、ステロイドの副作用のことも理解していたので、処方されないたびに「まだなの?」という気持ちとホッとした気持ちが入り混じっていた。

退院してから何度目かの通院日、続く38℃の発熱と毛嚢炎が確認されたためステロイドが処方された。「きっと良くなる」その時の私は希望しか感じていなかった。

20 mgからスタートしたステロイドだったが、残念ながら効いている実感はなかった。ステロイドを服用しても変わらない痛みに、次第に希望は消え、代わりに絶望にも似た感情を持つようになった。

ステロイドを服用しても改善せず、血液検査の結果からも炎症反応が出ないことから「やっぱり私が大げさに言っているだけなのでは」という気持ちになっていった。

 

ステロイド服用から2週間後の通院日。熱は38℃で下がらず、ステロイドが効いていないと判断され中止の方向で減薬になった(ステロイドはいきなり0にはできないので、止める場合は少しずつ減らしていきます)。ステロイドが効いていないとなると、免疫抑制剤も効くとは思えないので、今の段階では打つ手なし。次回の診察日までに治療を考えておくとリウマチ科の主治医は言ってくれたが、私は希望を感じることができなかった。

この時はリウマチ科の診察時に消化器内科の主治医も診察室まで来てくれて、2人で相談しながら治療方針を決めてくれていた。今考えると、外来でここまでやってくれる医師たちはなかなかいないと思う。

有難いと思いつつも「いつまでこんな状態が続くのだろう」と泣きながら帰宅していた。

 

その次の日の朝、起きると体が動かない。何かが変だと思った。次第にお腹も痛くなってきて、やっとの思いでトイレに行くと、激しい水下痢。1日に何回も水下痢が続き、飲み物を飲むも、全て出てくる。脱水になるのに時間はかからなかった。

B大学病院で点滴をしてもらい、一時回復するものの、すぐに症状は悪化。タイミングが悪いことにベッドが満床で、B大学病院には入院することができなかった。

仕方なく近所の総合病院を受診し、そのままその病院へ入院になった。持続的な点滴で脱水症状は良くなり、残るは腹痛と下痢のみになった。B大学病院から週明け受診するよう総合病院に連絡があり、一度退院することになった。この病院にお世話になったのは3日ほどだったが、担当してくれた消化器内科の先生には感謝しかない。(絶食制限がかなり厳しかったですが。)

そして週明け、B大学病院を受診し、そのまま消化器内科へ入院となった。

まずは胃カメラをした。実は前回の入院でも鼻から胃カメラをしたのだが、鼻が小さいようでしばらく鼻血が止まらなかった。鎮静剤もなしで行ったので、すっかり胃カメラはトラウマになっていた。緊張する私に、消化器内科の主治医は雑談をしてくれた。鎮静剤が効くまでスコープを持つこともしなかった。本当に優しい先生に担当してもらえたと思っている。

 

入院したということは、私の場合大腸内視鏡の検査はもれなくついてくる。大腸内視鏡の検査は、少し痛みを感じるため消化器内科の主治医指定で検査をしてもらった。(痛みを感じるのは個人差があります。)結果、大きな潰瘍が見つかった。腸結核の可能性もあるので、組織検査に出されることになった。結果は陰性。ステロイド20 mgを服用していても、容赦なくベーチェット病による潰瘍が作られたということになる。

今までステロイド20 mg服用しても良くならないことで、「やっぱり自分が大げさなのではないか」と自分で自分が信じられず辛かった。潰瘍という目に見える形で病気を確認できたことで「あんなに辛かったのは気のせいじゃなかったんだ。」と安心した気持ちにもなった。

 

この間、絶食していたため(点滴、エンシュア、ゼリー、飴のみ許可)ずっと38℃だった熱は37℃に下がっていた。

少し改善したため流動食が開始になると、また38℃の熱が出た。一般的に腸管ベーチェット病には食事制限はあまり効果がないらしいが、私には食事制限がとても効果がありそうだという話になった。

消化器内科に入院していたが、その間リウマチ科の主治医もずっと顔を出してくれていた。潰瘍ができていたこと、熱も下がらないことからステロイド40 mgが1週間限定で再開となった。しかし1週間経っても腹痛は改善せず、食事もほとんどとれないことからステロイドは中止となった。

消化器内科の主治医がカルテを見直してくれ、初めに異常が見つかったお腹の血管に注目し循環器内科に相談してくれた。循環器内科の見立ては「かなり狭窄している可能性が高い」とのことだった。数日後に血管拡張手術の流れとなった。

ここで1つ問題が出てきた。私の造影剤アレルギーだ。循環器内科では造影剤アレルギーを把握しておらず、造影剤を使用した手術が予定されていた。手術説明時に造影剤の話が出てきたので「私、アレルギーありますけど大丈夫ですか?」と聞いたところ「えっ!」と驚かれた。急遽、造影剤を使用しない手術に変更となった。(造影剤の代わりに二酸化炭素を注入しました。)ただ造影剤を使用しない場合と比べると血管がはっきり見えないため難易度が上がるらしい。

また、最初に検査をしてくれた関西のA大学病院に連絡を取ってくれ、どの造影剤でアレルギーが出たのかも確認してくれたらしい。

少しでも疑問に思ったことは伝えることの大切さを知った。自分の体のことを一番よく知っているのは自分自身なのだ。

 

手術当日、私は特に緊張もせず手術室に向かった。体に緑のシートが被せられ、カテーテルを入れる腕はイソジンまみれになった。この状況でも緊張していない私は、イソジンが含まれた綿を見て「梅干しみたい」と言って笑われた。

この日、手術をしたのは腹腔動脈という血管だ。お腹に繋がっている大きな血管は腹腔動脈、上腸間膜動脈、下腸管膜動脈の3つだ。(この動脈からまた別の動脈に分かれていきます。)その内2つの血管が詰まると、臓器が壊死する。

私の場合は腹腔動脈に炎症が起き、狭窄(血管が細くなり、血流が悪くなることです)していた。炎症の範囲は広範囲に渡っており、狭窄した先の血管は大動脈瘤が3つあり血管が脆くなっている状態だった。

バルーンという機器を用いて血管を広げ、体内には金属等は残さない方針だった。バルーンとは、その名の通り風船みたいに膨らむ機械だ。それを狭窄しているところに入れ、膨らませて、狭くなっている血管を広げようということらしい。ただ血管が固い場合はどんなに血管を広げても、バルーンを抜くと元に戻ってしまう。その場合はステントを血管に留置し、血管を広げる処置を取ると説明を受けた。

また、血管が脆くなっているためバルーンで血管を広げた時に血管が破裂し大出血を起こす可能性がある。その為、手術は意識を保ちながら行い、少しでも変だと思ったら伝えるという形を取った。

結果から言うと、バルーンでは上手くいかずステント処置になった。(バルーンは3種類使ってもらいましたが、どれも上手くいかなかったみたいです。)
 また手術は予定されていた時間の2倍かかった。手術終了時点でカテーテルを抜くと大出血を起こすので、カテーテルを縫い付けて留置したまま病室へと戻った。

 

病室へ戻っている途中、「ごはん食べられるかな?お腹空いたな」と循環器内科の主治医と談笑したのを覚えている。ところが病室に戻っている途中で少し吐き気が出てきた。

4人部屋の病室に戻り、家族への説明のため全員病室からいなくなった。1人残された私は、指が痺れてきたことに気づいた。痺れは足、お腹と広がり「これは何か悪いことが起こったに違いない」とパニック状態になり、たまらずナースコールをした。ほどなく看護師さんが来てくれてバイタルを測ってくれた。その時、たまたま消化器内科の回診と重なり、消化器内科の主治医が私の様子を確認すると、すぐに袋を口に当ててきた。「すごく時間かかったもんね。今日はいっぱい頑張ったし。その後、こんな所に一人ぼっちにされたら心細いよね。大丈夫だよ。」と言われた。

私は術後の痛みと不安と吐き気で上手く呼吸ができず過呼吸になったのだ。主治医の優しい言葉に涙がでた。

その後循環器内科の主治医も戻ってきた。病室でカテーテルを抜くようだ。カテーテルを動かすと激痛の為、痛み止めが追加投与された。しかし過剰投与だったらしく嘔吐した。

 

カテーテルを抜いた後は先生が手で術部を圧迫して止血をしてくれた。初めは10分程の予定だったが血が止まる気配はなく、1時間半も止血してくれていたが、血は止まらなかった。

この間、嘔吐することで上手く呼吸ができず過呼吸になることを繰り返していた。その度に循環器内科の主治医が「ごめんね。辛いね。」と言ってくれていた。

「先生、疲れちゃうね。ごめんなさい」と言ったら「お、余裕がでてきたかな?」と笑ってくれたことで場が和んだ。「僕は大丈夫ですよ。これも仕事ですからね」と長い手術の後と長時間の止血で疲れていたはずなのに、笑いながらそう言ってくれた。(この時点で6-7時間は立ちっぱなしだったと思います。)本当に優しい先生に恵まれたと思った。

吐き気と痛みでぐったりしながら消灯時間を迎えた。まだ血は止まらず、個室移動となった。

この時に手での圧迫止血から、器具での圧迫止血に切り替わった。しかしこの器具が吐くほど痛かった。

午前1時頃、循環器内科の主治医が止血を確認してくれたが、いつ大出血するか分からない状態だったため、結局止血させる器具を1晩つけることにした。

心電図も何度も乱れ、その度に看護師さんが様子を見に来てくれた。

 

ここで課題が1つある。トイレ問題だ。尿道カテーテルを入れていなかったのに、尿が一度も出ていなかった。個室だったためトイレは部屋の中にあるが、痛みでとてもじゃないがそこまで歩けない。体を起こすと吐き気もするのだ。結局ベッド上でトイレをする話になったのだが、出ない。どうしてもベッド上で出すことができなかった。

数時間後、やっと出たが失敗。あまりの屈辱と恥ずかしさと悔しさで号泣した。これが精神的に一番辛かった。(この時担当してくれた優しい看護師さんがしばらく慰めてくれました。)

腕が痛く、ずっと唸っていた。もちろん一睡もできなかった。

朝になり、止血の器具を外してもらうと、それまでの痛みが嘘のように引いていった。どうやら術部ではなく、止血の器具が痛かったらしい。

1晩で2 kg体重が減った。再発率は30%らしい。やせ型のため外部とステントの距離が近いので体を締め付ける服やベルトはNGと言われた。

 

術後、症状が改善することを期待したが、改善することはなかった。変わらず腹痛、吐き気は続き、ほとんど食べられない日々を送っていた。入院生活も2か月になろうとしていた。

そんな時、一度退院してみようかという話になった。ただし、毎週通院かつ少しでも具合が悪くなったら再入院と条件付きだった。

明日が退院日となった時、急に10回以上の水下痢と発熱があり、退院は1週間延期された。

この時、ステロイドは10 mgを内服していた。その1週間後、私は退院した。

 

●退院後の生活

退院後、食事をすると腹痛が出て熱も認められたため、今まで補食で出されていたエレンタール(経腸栄養剤。飲み物状で、お腹にとても優しい薬です)が主食となった。エレンタールはパウチに入った粉状の物で、水で溶いて飲む。私はこのままだと飲めなかったため、フレーバーと呼ばれる味がつく粉を入れて飲んでいた。1パック300 kcalあり、3パックが1日のノルマとなった。ゼリーにしたり、シャーベットにしたり色々工夫したが、胃が小さくなった私にとって3パックを摂取することはなかなか難しかった。

ご飯が食べられるわけではなかったので、基本的に飲み物はジュース、飴やキャラメルを舐める日々を送っていた。(体重を増やすためです。)初回受診時、44-45 kgあった体重は38 kgまで減少していた。

正直、病院の外は食べ物の誘惑だらけで辛かった。外来に行く時に外を出れば、必ず見かける飲食店。パンが好きなので、パン屋さんの前を通るのがとても辛かった。

基本的に家族の食事の時間は部屋から出ないようにしていたが(色々あり、実家に戻っていました)、食事の音がするだけでもストレスだった。家にある食品の類も、見ているとどうしても食べたくなった。どうしても我慢できない時は、食べ物を口に入れ、咀嚼してから出すということもしていた。

でも良いこともあった。食べなくなったことで熱が下がったのだ。食事を取らず腸を休ませたことが良かったようだ。

 

退院から1週間後、循環器内科、消化器内科、リウマチ科の外来の為に病院を訪れた。

この状態を見たリウマチ科の主治医に「この状態で仕事はさせられないな」とはっきり言われた。

食事をまともにとれていない状況で就業許可が出ないのは当然のことだったと思う。

ただ、気持ちに折り合いがつかなかった。半ばヤケになり、その晩普通の食事をとった。

次の日の朝、当たり前の結果だが38℃の熱が出て下痢をした。

懲りた私は気持ちを切り替えて、実家の愛犬とのんびり過ごしていた。

その数日後、38.5℃の熱と異常な寝汗が出た。後に分かったことだが、腸に潰瘍があると寝汗がすごくなる人がいるらしい。

 

この時の受診間隔は1週間だった。38℃の熱が続いた状態で次の外来日を迎えた。

消化器内科の主治医には、ご飯を食べたことを正直に伝え、素直に謝った。幸い面と向かっては怒られなかった。

先生の目の前で熱を測ると38℃を超えていた。その様子を見て、リウマチ科の主治医の所に相談しに行ってしまった。

しばらく待つと、消化器内科とリウマチ科の主治医がやってきた。

リウマチ科の主治医は「もう一度入院しよう」と一言。退院してからわずか3週間程のことだった。

他の病院の先生に相談をしようと考えていらっしゃって、その為にももう一度検査をしたいこと、また入院していた方が私自身が安心だろうとのことだった。

消化器内科の主治医も「IBD(炎症性腸疾患。クローン病や潰瘍性大腸炎のことを指します)でも、ここまで体重が落ちると要注意です。」と言っていた。

ベッド待ちとのことで、この日は一度帰宅した。

 

●素敵な幼馴染達

なかなか入院の連絡が来なかった。そんな時、中学からの仲良し4人グループの1人から(私を含め)4人で遊ぼうとお誘いがあった。正直体調に不安はあったが「来れそうだったら来るってことで。参加するのは2人の秘密にしよう。その日の体調次第で決めてくれて構わないから。」と言ってくれた。

当日の体調は、正直最悪だった。熱は変わらず38℃あり、午前中だけで5回もトイレに行っていた。でもどうしても会いたくて、頓服薬を複数種類内服し会いに行った。

頓服薬で誤魔化していても、この3人は何でもお見通しだった。

少し歩いたらカフェで休憩。タバコを吸っている人がいたらさりげなく遠ざけてくれたり(初回入院時に脳動脈瘤が見つかり、タバコの煙等は避けるように指導されていました)、階段を降りる時はさりげなく腕を組んでくれたり、人混みを避けるように歩いてくれたりした。

カフェに入ったら、いつもは必ずケーキを食べる子たちなのに、誰一人としてケーキを頼まなかった。私が食べられないからとは一言も言わず、態度にも出さず、さも「私はケーキよりこっちが食べたいです。」と言った雰囲気を出してくれていた。ここまで気を遣わせてしまったとも思ったが、気遣いに素直に感動した。(こちらが申し訳ないと思わないような雰囲気を出してくれたのもあります。やろうと思ってもなかなかできないことです。)

そして「入院頑張れ」と可愛いルームウェアをプレゼントしてくれた。

私がトイレに行っている間に購入してくれていたようだ。こらえ切れずに泣いた。優しさが嬉しくて、こんな素敵な友達がそばにいてくれることに胸がいっぱいで泣いた。

帰り際「気を遣わせちゃってごめんね。」と言うと、全員に「こんなの気を遣っている内に入らないから」と言われた。

病気で失ったものはたくさんあった。離れていった人もいた。酷い言葉を投げかけてきた人もいた。でも、本当に大切な人は失わずに済んだ。

「絶対治療頑張る。」上手くいかない治療に心が折れかけていた日々だったが、元気を注入してもらえた日だった。

 

●再びの入院

入院が決まってから約3週間後、私は再び入院した。

入院した次の日には消化器内科の主治医も顔を出してくれ、その次の日には前回消化器内科で入院した時にお世話になった研修医さんが会いに来てくれた。この時は消化器内科の研修は終わっていたそうなのだが、私が入院していることを聞いて会いに来てくれたらしい。そんなこと初めてで、とても驚いたと同時に嬉しかった。

この入院で、初めて受診した科があった。精神科だ。神経ベーチェットが出ていないかの確認と、やはり精神的なものでの発熱・腹痛を疑われてのことだった。

検査の結果は問題なしだった。

今まで頑なに上がらなかったCRPもこの時はほんの少し上がっていて、主治医も「やっぱりお腹なのかな」と頭を悩ませていた。

入院して1週間弱で軽い下血もあり、1日に10回以上はトイレに行く生活だった。水を飲むだけでお腹がぎゅるぎゅると動いていた。この時から点滴生活になった。

そして、免疫抑制剤がスタートし、その2日後にはステロイドが20 mgに増量となった。

しかしその3日後、便器が赤く染まるほどの下血が出た。血液は便器の水で広がるので、真っ赤になってもそこまで出血が多くない場合がある。でも真っ赤に染まった便器を見て動揺せずにはいられなかった。

そして絶食治療の為に鎖骨下からカテーテルを入れ栄養を流すというIVHをすることとなった(人によっては腕、首など場所は様々です)。この時、体重は36 kgを切ろうとしていた。

 

●初めての大量下血

そして、その5日後。夜中目が覚めた私は、ほんの少しの腹痛を感じた。

トイレに行くと、何かが違うと思った。大量下血だ。便器が真っ赤どころの話ではなかった。血の塊も出ていて、変なにおいもする。「これは今までの下血と違う」そう思った。

血圧も下がってきていたが、とりあえずベッド上で安静にし、朝を迎えることになった。

この時、私は不安だった。何度もトイレに行き、その度に増える出血量。もう便器の水は分からなくなるほど、一度の出血量は多かった。

深夜2時頃、初めてお会いする研修医さんがベッドまで来てくれた。

「びっくりしちゃいましたね。血を見てね、びっくりしちゃった胸の内を主治医に話して良いんですよ」「もうすぐで先生来ますからね」と励ましてくれた。

忙しいはずなのに「研修医は暇ですから、お話してください。」と、私が安心できるように主治医や担当医の話題を中心に話をしてくれた。やっと私に笑顔が戻ったころ、研修医さんは帰っていった。不安で仕方なかった私が耐えられたのは、間違いなくこの研修医さんのおかげだ。退院までにお礼を言いたかったが、名前も覚えておらず偶然会うこともなくお礼を言えずにいる。

 

朝になっても下血は止まらなかった。何度も出る血の塊。出血の勢いが強いためトイレの周りにも血が飛び散っていた。もう10年近くなるが、今でもあの光景は忘れられない。

貧血の為か立ち上がると気持ち悪くなるため、もう私は自力で歩けなくなっていた。

採血をしても、急激に出血したためか起き上がっていたら血が出てこない。少しでも血が取れると今度は耳がとても聞こえにくくなったりした。

朝一でリウマチ科の主治医が来てくれた。主治医の顔を見た瞬間、急に涙が出てきた。「先生、血が止まらないよ」と泣きながら言った。泣いている姿を見せたのは、この時が初めてだった。

キャンセル枠がちょうど1つ出て、最終枠で緊急の大腸内視鏡をすることになった。こんな状態なので2Lの下剤は免れるだろうと思ったのだが甘かった。きっちり2Lの下剤が用意され、飲むように指示される。

下剤を飲んでも出てくるのは血の塊ばかり。半分しか飲めない状態で内視鏡の時間になった。ビビりの私は毎回鎮静剤を投与してもらう。消化器内科の主治医も私の性格を分かっているので、内視鏡が始まるまでとても優しい声で話をしてくれた。そして鎮静剤が投与され、目を閉じた。

 

内視鏡が終わった後の説明で、前回入院時から潰瘍が3倍まで大きくなっていたことを知った。回盲部の潰瘍は血管がむき出しになっていたので、クリップで止血をしたらしい。ただ血管が固くなっていたので、なかなかクリップが止まらず止血に時間がかかったようだ。また小腸からも血が流れてきていたらしいが、大腸内視鏡では処置することができず、内科的に止血をすることになった。

今すぐ輸血が必要なヘモグロビン値ではなかったが、大量出血により一気に減ってしまったためその日の夜は輸血をすることになった。次の日、体の軽さに驚いた。

そしてステロイドパルス療法が始まった。

 

ステロイドパルスは、3日間高容量のステロイドを点滴するという治療方法だ(人によって何クールやるかは異なります。私の場合は1クールでした)。

パルスの最中は、なぜか口の中が苦かった(ずっとステロイドの味がしていました)。血糖値も200を超えたり、顔中がなぜか脂ギッシュになったりした。でも私が感じた副作用はこのくらいだった。

ステロイドパルス2日目。お腹の触診の為に、リウマチ科の主治医が回盲部(お腹の右側です)を押すと、痛くない。今まで必ず痛かった触診。初めて痛くないことが嬉しくて思わず涙が出た。ただ数日後には痛くなっていたため、痛み止め効果もあるステロイドの影響かもしれない。でも「痛くない」ことに感動した。

 

内視鏡処置から約1週間後、カプセル内視鏡をした。今すぐ出血するような潰瘍がなければ食事が再開となる。

このカプセル内視鏡では、小さな潰瘍が見つかったがすぐに出血するようなものではないと分かった。ただ、今回処置した潰瘍がもう少し閉じないと食事スタートには出来ないらしく、まだしばらく絶食生活は続いた。

 

ステロイドパルスの後は点滴でステロイド80 mg(プレドニン換算で40 mg)を投与されていた。それにも関わらず皮膚症状である結節性紅斑が出た。これにはさすがにリウマチ科の主治医も驚いていた。

この頃から鎖骨下に入れていたCVカテーテルの挿入部分が、時々ズキンと痛むようになった。感染症の兆候はないらしく、しばらく様子見となった(長期間CVカテーテルを入れている人は、カテーテル挿入部から感染症にかかりやすくなっています)。

そして生物学的製剤である『レミケード』投与の計画が立てられた。

 

●次の薬は生物学的製剤の『レミケード』

ステロイド、免疫抑制剤同様、生物学的製剤も免疫を下げる。つまりは感染症のリスクが上がる。その投与が始まる前にどうしても気分転換したかった私は、あろうことか外出許可を主治医に求めた。

「絶対ダメ」と通常の反応が返ってくるが、様々な交渉術を駆使し「本来、安全を考えたら絶対許可できないんだよ」と、たくさんの条件付きで2-3時間の外出許可がでた。この時、鎖骨下に入っているCVカテーテルはそのままだった。次の日、病院付近しか許可は出なかったが、束の間の外の空気を楽しんだ。病院から出て15分後には疲労を感じていたが、楽しくて仕方がなかった。

外出から4日後、1回目のレミケードを投与した。心配していたアレルギー反応はなくホッとした。

 

次の日、循環器内科の診察があった。問題ないと思っていたステントだったが、部屋に入った時見えた先生の顔が険しかった。どうやらステント部分が少し狭窄し始めているらしい。ステント自体が狭くなっているのではなく、ステント内部で細胞が増殖してしまい血管が狭くなってきているようだ。再発率は30%と言われていたが、病気の勢いを考えると再発の可能性はもっと高くなるらしい。レミケードが効いてくれることを祈ることしかできなかった。

 

それと同時に気になる症状が出てきた。1つはCVカテーテルが入っている場所が腫れてきたのだ。この時は血管炎だと思っていた。

もう1つは筋力低下だ。ステロイドによる副作用と入院生活が長いことで筋力が低下し、一度しゃがむと自力では立ち上がれなくなっていた。

低栄養状態かつ亜鉛を排出する作用がある薬も飲んでいるので味覚障害にもなっていた。困っている症状がありすぎて、いったい何を伝えたら良いのか、全てを伝えたら「うるさい患者」と思われてしまうのではないかと悩んでいた(これについては何年経っても解決しません)。

 

●レミケード後の反応

経腸栄養剤のエレンタール摂取の許可が出た。

点滴を外すためにもエレンタール摂取を頑張った。1か月以上飲み物以外入れていなかったお腹は、エレンタールが入ってきたことにとてもびっくりしたらしい。ものすごい音を立てた。ついでに吐き気もした。

 

レミケード投与から3日後、口の中にカビが生えた。レミケードで免疫力が下がってしまい、真菌(カビ)に日和見感染したらしい。

熱も38℃近く出て、大きな毛嚢炎(ベーチェット病の皮膚症状の1つです。ニキビに似ています)までできた。このタイミングで症状が出てきたことに、先生たちは頭を悩ませていた。

38℃の熱が続き、トイレの回数も18回。更にははっきりとした下血があることでエレンタールが中止となった。この時は水を飲んでも下痢になってしまっていたので、たとえご飯を食べても腸を刺激しながら通過するだけになるだろうとのことだった。

 

深夜2時、再び大量に下血した。

朝、大腸内視鏡の検査が入り、お決まりの2Lの下剤が準備された。飲み進めていくが、下剤が出てこない。どんどんお腹に溜まるだけで、下剤は全く出てこなかったのだ。さすがに私もギブアップ宣言をした。「止血するわけでもないのに、どうして大腸内視鏡をやらないといけないの?もう飲めないです」と。

「週末にもっと大量下血したら嫌だから」「今出血している箇所が分かれば、そこをクリップで止血するから」と何を言っても検査は中止にならなかった。

その日の午前中不在だった消化器内科の主治医が戻って来て、私の話を聞いてくれた。すぐに輸血が必要な程の出血はしていなさそうなこと、下剤が出てこないこと、この時点で私が下剤をほとんど飲めていないことにより、大腸内視鏡は中止となった。

ただ回盲部の潰瘍が深くなっている可能性があるらしく、続くようならCTを撮らないといけないらしい。結局、飲み物も刺激になっているのだろうということで、「お水を少しだけ」という制限がついた。

 

●2回目のレミケードと痛み

1回目の投与から2週間後、2回目のレミケードが投与された。途中寒気と痒みが出てきたため、抗ヒスタミン薬も追加になった(アレルギー反応の可能性があるので予防の意味合いです)。

投与後37.9 ℃の熱が出た。これがベーチェット病によるものなのか、それともレミケードのアレルギーによるものなのかは、この時はまだ判断はつかなかった。

数日後、レミケード評価のため大腸内視鏡の検査をした。レミケード投与後も何度か下血をしていたにも関わらず、大腸内視鏡の検査結果は「潰瘍は改善傾向」だった。

ただ潰瘍の端の方から少しずつ出血しており、ずっと続いている下血はこの出血が原因のようだった。

 

この時期は腹痛が強く、筋肉注射で痛み止めを打ってもらっていた。

ただ、筋肉注射であることと「なるべく我慢して」と言われたこともあり、痛くても痛み止めを使わず我慢していた。起きている時間は絶え間なく襲ってくる腹痛。ついでに全身も痛かった。痛みが常にある生活は、想像以上に私の精神状態を悪化させた。

痛くて1人ベッドで泣いていると、看護師さんが来てくれ、こう言ってくれた。

「どれだけ痛いのかは、本人にしか分からないんだからそんな我慢する事ないよ。痛かったら、痛み止め使おう。我慢し過ぎると、逆に効かなくなったりするし。使って、少し寝ちゃおう。」

この言葉で、ずっと我慢していた痛み止めを使うことができた。痛み止めが効いてきて、とても穏やかな気持ちになれ、その後1時間程眠ることができた。必要以上に痛み止めを使うことは良くないけれど、心を追い詰めるほどまで我慢する必要はないと思った。

ただ、我慢できる範囲と飲んだ方が良い範囲の判断が難しい。我慢をしようと思えば、どこまででも我慢が出来てしまうからだ。

 

レミケードをしても便器が赤く染まるほどの下血はずっと続いていたが、急に下血の量が増えた。この時、ステロイドの点滴は50 mg(プレドニン換算25 mg)。20 mgから退院なので、エレンタールが飲めたら退院も見えてくるはずだった。

 

●感染症

下血が増えた深夜、目が覚めた瞬間にどうしようもない倦怠感に襲われた。体の置き場のない感じで、これは何かが起こっていると直感的に感じた。熱を測ると37.7 ℃とそこまで高くはなかった。

次の日の夜にCVカテーテルが撤去された(実はカテーテルを固定していたはずの糸が2か所とも切れていたそうです。痛みの原因はこれだったのではと思います)。このCVカテーテルの部分から菌に感染してしまったのである。

血液培養の結果、カンジダと同定され抗菌薬が開始となった。不幸なことに菌は血液を流れ全身に巡ってしまっていた。血尿、蛋白尿、リンパ球減少、目の出血による視野欠損と様々な症状が出た。(特に目は失明の可能性があり、怖かったです。)本も読めなくなり、一時は失明を覚悟した。見えにくい状態は10日ほど続いたが、抗菌薬が効いてくれたため改善した。

感染症を考えると再度CVカテーテルを入れることはできず、末梢(腕等からルートを取る通常の点滴です)から栄養を入れることになったが、ここで問題が起きた。

血管炎が起きるので、1日ごとにルートを取り直さなければいけなくなったのだ。それでも血管炎を起こしてしまい、とうとうルートが取れなくなった。

今まで点滴で投与していた薬も内服に代わり、3分粥も出るようになった。脱水が怖いので、水分は取るよう指示された。

下血の量は増えてしまったが、久しぶりのご飯は美味しかった。

 

点滴から内服に薬が変わったら、ベーチェット病の皮膚症状である結節性紅斑が一気に10個もできた。加えて順調に下がっていたカンジダの数値も上がり始めた(腸の状態が悪く、薬の吸収が上手く出来ていない可能性がありました)。

そこで、抗菌薬だけ点滴投与になった。血管炎を起こすので点滴のルートが取れないため、毎日肘の裏(よく採血のされる場所)に針を抜き差しして点滴投与することとなった。時間は30分ほどで、その間は腕を動かしてはいけなかった。

 

2回目のレミケード投与から2か月弱が経った頃、3回目のレミケードを投与し、私は退院した。約3か月半の入院生活だった。

病院の外に出た瞬間、何もかもがキラキラして見えた。全てが色鮮やかに写ったのだ。この景色を、感覚を私は一生忘れないと思う。

 

●4回目のレミケード

レミケードを投与すると、毎回発熱していた。通常は点滴の所要時間は2時間なのだが、私の場合はアレルギー反応が出ないように滴下速度を落としていたので6時間程かかっていた。これ程時間がかかると外来での投与は無理とのことで、2泊3日で入院しレミケードを投与することになった。

退院から2か月後、4回目のレミケード投与の日を迎えた。この前日から下血があったので、レミケードが切れてしまっているのだと思った。

レミケードの前に抗アレルギー薬を内服し、ステロイドの点滴をしてからレミケード投与となった。やはり今回も発熱があったが、解熱剤で次の日には解熱したので予定通り退院となった。しかし退院した夜、再び38℃の熱が出た。病院に行ったら入院になってしまうので解熱剤を飲んで寝た。幸い次の日には熱は下がった。

でもこの時からレミケードの限界を感じていた。私はレミケードが効いていると思う期間が非常に短かった。また投与の度に発熱していたので、レミケードが完全に効かなくなる日がくるのも時間の問題だと思った。

 

●突然の別れ

2回目の入院の時に、仲良くなった年配の患者さんがいた。私とはだいぶ年が離れていたが、私のことをとても可愛がってくれた。おそらく症状が重い患者さんだったと思う。でもそんなことは感じさせない位、色々なことに挑戦していてとても刺激をもらっていた。病気でも挑戦し続けることができることをこの人から学んだ。

そんな時、その人が再入院したことを知る。

私は何度か外来のため病院に通っていた。「会いに行こうかな」そう思うも、外来で疲れてしまい、病棟まで行く元気がなかった。

体力もだいぶついた8月のある日、私はその人に会いに病棟に行った。まだ入院していると思ったからだ。看護師さんにその人の名前を出した瞬間、看護師さんの顔が曇った。私はすべてを悟り、病棟を後にした。

帰りの駐車場のエレベーターで泣いた。もっと早く会いに行かなかったことを後悔した。泣くくらいなら、こんなに後悔するなら、疲れたなんて言っていないで会いに行けば良かった。「またね」が保証されないことくらい、今までの経験で十分に分かっていたはずだったのに。

 

●珍しい関節炎と緊急入院

2012年9月、私は家の近所のカフェにいた。カフェで本を読んだり、のんびりしたりするのが好きで、時々このような時間を過ごしている。いつものようにデカフェの飲料を楽しんでいると、胸に激しい痛みを覚えた。時々胸にずきずきと痛みを感じることはあったが、経過観察で過ごしていた。今回はその比にならない位痛い。すぐに家に帰ったが、帰宅する頃には息をするのも辛い程の激痛で、救急車を呼んだ方が良いかもと思った。そして鎖骨と胸の間がどんどん腫れてきたことに気付いた。家族に連絡を取るも繋がらず、タクシーで近くの総合病院に向かった。

事情を話し、痛み止めを点滴してもらった。薬が効いている間は大丈夫だったが、切れた後は息をするのも辛い程の痛みが襲った。次の日病院へ行くと、そのまま緊急入院となった。

生物学的製剤、免疫抑制剤、ステロイドを使用している状態での出来事だった。

主治医からは「こんなに薬を使っているのに、もし関節炎が出てしまったら治療のしようがない」と言われた。患部の評価をしたところ、胸鎖関節の関節炎であることが分かった。

 

入院から10日が経ち、5回目のレミケードが投与された。しかし投与直後に大量下血した。こんなに大量の下血は数か月ぶりで、前回の治療を思い出し不安になった。そして、絶食生活がスタートになった。しかし今回は感染症のこともあり、IVH(鎖骨からカテーテルを入れ、そこから栄養を補給する方法)は行わなかった。末梢から入れる栄養剤もあるが、私の場合は血管炎を起こしてしまうため使えず、点滴からは1日300 kcal程しかとれなかった。

レミケードを投与したにも関わらず、CRPは上昇した。入院してから関節炎の痛みは一時改善したが、再び痛くなっていた。急遽ステロイドの点滴注射をすることとなった。これにより痛みは改善し、約4週間の入院が終わった。

しかし退院から2日後、再び腫れてきてしまい再度病院を受診した。

CRPは高めだけれど異常なし。ただ栄養の値が下がっていたのでレミケードが切れている可能性があった。エコー検査の結果、右だけだった関節炎が左にも出てきていたため、ステロイドの点滴をしてもらい帰宅した。この時、内服のステロイドは15 mgだった。

年末までレミケード投与の為、1週間程の入院を2回した。そして2012年最後の外来、頓服のステロイドは処方されたが、念願だった10 mgまでステロイドが減量となった。

 

●ヴァイオリン

前回の入院で、私は白血病の子と友達になった。この団体の代表者である愛ちゃんだ。気さくでほんわかした、でも芯の強い女の子。とても話しやすくて、お互い体調が良ければベッドに座ってお喋りしていた。

話をしていて、彼女が骨髄移植を受けるために無菌室に入る予定であることを知った。無菌室は持ち込める物も限られている。気分転換しようにも部屋から出ることなんて出来ない。

壁に囲まれた殺風景な部屋で、どう気持ちを保てば良いのか。私には想像もできない程辛い治療だ。頑張る彼女の為に、無菌室でも病気に負けず頑張れるように何かがしたかった。

 

私はアロマテラピーの資格を持っており、彼女はバラの香りが好きだった。そこでセルフマッサージができるように、マッサージの仕方をコピーしてラミネートした物をオイルと一緒にプレゼントした。ラミネートすれば消毒することができ、無菌室へ持ち込めると思ったからだ。これを渡して嫌な気持ちにならないかと不安だったが、彼女はとても喜んでくれた。喜ぶ彼女の姿を見て、私はとても嬉しかった。

 

そして彼女は骨髄移植を受けるため、無菌室に入っていった。

そんな彼女と1つの約束をした。

「退院したら、パッヘルベルのカノンを一緒に演奏する」

彼女は幼い頃からヴァイオリンを弾いているが、私は社会人になってからヴァイオリンを始めたので、超がつくほどのド素人。私は退院してすぐに、カノンの楽譜を印刷した。ヴァイオリンの先生にカノンのレベルを聞いたが、初心者には難しいとのことだった。それでも私は練習した。退院してから38℃の熱がありチューニングするだけの日もあったが、ヴァイオリンには触り続けた。

もし私がカノンを弾くことができたら、彼女の移植が成功してくれるんじゃないかという気がして。ただの願掛けであり、私がカノンを弾ける弾けないは全く関係がないことは分かっていたが、「どうしても移植が成功して欲しい。生きて、元気に退院して欲しい。」という思いが強く、何かに頼りたかったのかもしれない。

 

気持ちの面で病気に負けて欲しくなくて、メールを送り続けた。

病気の辛さは想像することはできても本人にしか分からない。「果たして自分のやっていることは正解なのだろうか。彼女のプレッシャーになったり、辛い気持ちにさせていないだろうか。」と不安を感じていた。でも私に出来ることを考えた時に、繋がり続けることしか思い浮かばなかった。メールの返信がこなくても全くかまわなかった。

私は入院中、人と連絡を取ることが負担になっていた時期があった。しかし勝手な話だが、鳴らない携帯を見て酷く孤独も感じた。社会から、みんなから忘れられてしまうのだろうかと本気で思った。そんな思いはして欲しくなかった。

そして彼女は想像を絶する辛い治療を乗り越え、退院した。退院してからも精力的に動いていて、心の底から尊敬している。その姿に刺激をもらい「私も頑張らなくちゃ」といつも思う。大切な私の友人だ。治療を頑張ってくれて、生きていてくれてありがとう。

 

●再びの下血で緊急入院

2012年12月にレミケード投与の為の入院をしてから3か月半、私は自宅で過ごすことができていた。その間も下血は度々あったが、食事制限や体を休めたりすれば止まっていたので何とか自分で対応できていた。(ステロイドは15 mgに増量しています。)またあの入院生活に戻りたくなく、ほとんどジュースと飴とキャラメルしか摂取していなかった。今思うと、とんでもない生活だ。

しかし、この時は違った。絶食をしていても下血が止まらないのと、どんどん下血量が増えていった。病院に行ったら入院になってしまうのは明らかだった。

「大丈夫、まだ大丈夫。」と自宅で3日間耐えた。少し歩くとフラフラし始め、息切れも出てきたので貧血になっていると分かり、とうとう観念して病院へ向かった。

病院に着いてすぐ下血した。下血の量を看護師さんが確認すると「もう少し早く来ても良かったんじゃない?」と言われた。予想通り、私はそのまま入院となった。

今回は止血剤を連日点滴投与してもらい、下血が止まった。出血量が思いの外多かったらしく、ヘモグロビンも一気に減っていた。

下血はベーチェット病によるものと判断され、普段の1.5倍量のレミケードが投与された。

出血してから1週間後、大腸内視鏡の検査をしたが潰瘍はなかった。小腸から出血した可能性もあるが、治ってしまったので出血箇所不明ということになった。(すぐに検査をしていたら潰瘍が見つかったかもしれません。)

潰瘍がなかったので、エレンタールが開始になった。鉄剤も投与となり、貧血治療が加わった。

この時の私は薬の種類によっては吸収することができず、薬がそのまま出てくることがあった。長年の絶食で、小腸がツルツルになってしまっているのではと言われた。食事を取っていけば、柔毛が育ってくるらしい。

レミケード投与から謎の高熱が出たこともあったが、食事は流動食になり約3週間で退院した。

 

●レミケードが効かない。それと再発

退院してからの私は、精神的に絶不調だった。倦怠感、下血、皮膚症状が、レミケード投与直後でも変わらず出てくるようになった。

次第に熱も出て、度重なる入院に体力もなくなり、ほぼ寝たきりの生活を送っていた。

2013年5月、レミケード投与のために再び入院することになった。

投与から3日目、39 ℃近くの熱が出た。

この入院中、循環器内科にも診ていただいた。一昨年手術したステントの状態を確認してもらうためだ。評価は腹部エコーで行う。

結果は、再発だった。

以前よりも狭窄の度合いが強いらしい。術後1年間平気だった人で再発する人はほとんどおらず、この結果は先生としてもショックだったらしい。

病室に戻って泣いた。悲しさではない。申し訳なさで泣いた。何時間も手術をしてくれた循環器内科の主治医、症状が少しでも良くなるようにとカルテを見直し血管に着目してくれた消化器内科の主治医、ベーチェット病の勢いをなんとか抑えようとしてくれているリウマチ科の主治医、励ましてくれた看護師さん、尽力してくれたすべての人に申し訳なくて涙が出た。

退院する前に教授回診があったのだが、その時に明らかにレミケードの抗体が出来てしまっていることを指摘され、レミケードは今回で最後となった。

 

●新しい生物学的製剤。ヒュミラ開始

レミケードが中止になり、別の生物学的製剤の名前が挙がった。『ヒュミラ』だ。初回は通常の4倍量、次回は2週間後に2倍量、そして2週間ごとに投与する自己注射型の薬だ。2013年6月、入院して初回のヒュミラを投与した。実はこの薬、投与する1か月前に腸管ベーチェット病が保険適用になったらしい。それまでは保険適用になっていなかったので治療の選択肢に入ってこなかった。

2回目(2倍量)までは良かった。しかし通常量になった途端、熱は下がらなくなり夏にはCRPがほんの少し上がるようになってしまった。また、自己注射をした直後に嘔吐、吐き気もあった。その夏は腹痛、嘔吐、下血で食事があまりとれず、脱水状態と栄養失調になり何度か入院した。そして9月、わずか3か月弱でヒュミラが中止となった。

 

●突然の腰痛。菌はどこだ。

2014年のお正月が過ぎたころ、急に腰に激痛が走った。翌日に近所の整形外科でレントゲンを撮ってもらい、椎間板の炎症によるぎっくり腰みたいなものと診断された。椎間板の間が狭くなっていたようだ。原因に心当たりはなかった。この時点で大学病院を受診すれば良かった。

強力な痛み止めを飲むことでなんとか歩くことは出来た。

痛みによるストレスからか分からないが、数日後には下血をし、予約外でステロイドの点滴をしてもらうこともあった。ステロイドの点滴をすることで腰痛が改善するので、関節炎が疑われていた。中止だったヒュミラも再開になった。

初めに痛みを感じた日から約1か月半後の3月、再び腰に激痛が走った。起き上がることもできず、この時は枕元に痛み止めを置いておき、飲んでから起きるようになっていた。

痛み止めで何とか生活していたが、次第に腹痛も強くなっていた。そしてCRPが上がり始めたので3月末に入院して精査することとなった。

β-D-グルカンというカビのマーカー値が3桁になっていた(通常は20以下です)。

実は4月から主治医が別の部署に異動となることが分かっていた。いろいろ掛け合っていただいたみたいだが、外来はなくなってしまうことが決定していた。

私の腰の痛みに耳を傾けてくれ、他の先生が消極的な中、腰のMRI検査のオーダーを入れてくれた。主治医が最後に指示してくれた検査だった。

 

以前カンジダ血症だったので、今回の菌もカンジダと想定して検査が行われた。今回はどれも辛い検査だった。

心臓に病巣を作ることがあるらしく、経食道心エコーを行った。担当は循環器内科で、循環器内科の主治医も同席してくれるとのことだった。とても辛い検査だと聞いていたので怖かった。鎮静剤は(その病院では)麻酔科医がいないと使えない強力なものを使ってくれたらしいのだが、あまりの痛さに目が覚めた。

痛みで暴れるたびに「痛いね」「頑張ろうね」と循環器内科の主治医が声をかけてくれたのが心強かった。

心臓に問題はないことが分かった。ではどこに病原菌が隠れているのか探すことになった。

それはすぐに見つかった。リウマチ科の主治医が最後に指示してくれたMRI画像だ。

素人の私が見てもすぐに分かるほどの影が背骨に見つかった。「CTでは分からなかったと思う」の一言を聞いて、改めて主治医に感謝した。

呑気な私は「スポーツしちゃいけないんですか?」と聞いて、「そういうレベルの話じゃない!」と怒られた。

腰に問題があると分かった私は車いす生活になった。少しの負荷で骨を潰してしまう恐れがあったからだ。回診の度に「安静にしていますか?」「車いす使っていますか?」と確認された。無茶をするので信頼されていないらしい。

 

次の検査は菌同定の為の椎体生検だった。

やらない選択肢もあったが、もしカンジダではなかった場合、薬が効かない。でもどの菌か分からなくて薬を変えてしまうと耐性菌が出来てしまうということで、椎体生検を受けることにした。3~4 mm位の筒を背中に刺して、中の組織を採る検査らしい。かなりの痛みを伴うらしく、正直「やめたい」と思っていた。

なぜ痛いかというと、神経に触れる可能性があり、その時は医師に教えないといけないので強力な痛み止めが使えないとのことだった。

椎体生検の最中は怖かった。背後で行われているので何をされているのか分からない恐怖、神経に触れないかの恐怖、筒が入らないらしくハンマーのようなものでガンガン叩かれる恐怖、そして時折聞こえる「あ、行きすぎた」「これでだめだったらもう無理だな」という医師の言葉。これらのせいで痛みを何倍にも感じたように思う。途中で別の先生に代わり、何とか組織を採ることができた。この間、私のあまりの痛がり様に、使わないと言われていた強い痛み止めが点滴された。

椎体生検の結果、カンジダ菌と同定された。この菌に合った薬を飲むことになる。しかし、背骨は薬が届きにくいらしく7年後の今でも飲み続けている。

β-D-グルカンの値が下がり傾向になった4月末、1か月間の入院が終わった。

 

ベーチェット病と感染症の治療を並行で行うのは、とても難しい。特にステロイド、免疫抑制剤、生物学的製剤は免疫力を下げてしまい、普通の人なら発症しない菌にも感染して重症化してしまう可能性がある。ただ、これらの薬を減らすとベーチェット病が再燃してしまう可能性もある。治療のベクトルが真逆なので、そのバランスが難しい。

 

●仕事と病気

2013年後半から復職の準備を始めていた。年末には、リウマチ科の主治医以外の医師全員反対という中、主治医は「復職可」の診断書を書いてくれた。もちろん残業・出張禁止の旨は書かれている。この時は「もうこれ以上良くはならない」と見切ってのスタートだった。

元の部署に戻れると思ったが、研究所属のマネージメント部門に異動となった(要は実験、研究をするグループから外されました)。もう十分迷惑をかけているのと、上司が私の体のことを考えてくれたのが分かったので「嫌だ」と言うことができなかった。2014年の1月に復職予定だったが、その直前に下血があり、ステロイド増量とヒュミラが再開になってしまった。免疫力を更に下げてしまったことでインフルエンザ等の感染症リスクが上がり、復職は延期になった。その後は先ほど記載した感染症に罹り、車いす、リハビリ生活を送っていた。

途中、何度も退職しようと思った。こんなに休んで迷惑をかけて、本当に申し訳なかった。復職できても制限がある体なので、辞めた方が周りの為になると思った。

でも色んな人に「休める内は休んで。権利なんだから。元気になった時に頑張れば良い。期限が来るまで辞めない方が良い」と言われた。

そして休職終了の期限が近付いてきた。この間リハビリに励んでいたが車いす生活は続いていた。車いすで会社に行くのは勇気が必要だった。でも復職したい気持ちが強く、また会社の人も協力的でみんなが味方になってくれた。そのおかげで1か月間のトライアル出社を経て2015年1月、私は復職した。

上司がとても理解してくれ、休憩所を作ってくれた。フレックス勤務だったので、体が辛い時はそこで休めば良いという意味らしい。また一緒のグループの人も素晴らしかった。病気を知っていても、変に気を遣うことなく話しかけてくれる。仕事の指導も遠慮せずにしてくれた(出張がないように等の業務配慮はありました)。通常は飲み会があると思うが、お昼会を開催して私でも食べられるものを準備してくれた。車いすでドアを開けようとする時に駆け寄ってきて開けてくれたこともあった。でも、その全てが私に「申し訳ない」と思わせないような雰囲気を出してくれていた。また、前グループの人達が休日にも関わらず復帰祝いパーティーを開いてくれた。病気を勉強してくれたのだと思うが、私が食べられる物を準備してくれていた。本当に人に恵まれていたと思う。こんな素敵な人たちと仕事が出来たことが嬉しい。

残念ながら組織編制があり、グループは無くなり私は別会社からの退職となったが、今でもこのグループで仕事をしていた経験は私の自信になっている。

 

ただ全ての難病患者がこのような恵まれた環境かというと、確率はかなり低いのではないだろうか。体調不良の時に休める、通院時には休みをとれる、仕事内容も配慮していただける環境でないと働き続けることが難しい人もいる。免疫が落ちていれば、衛生面も他の人の何倍も気をつけなければいけない。以前、元主治医に他の患者さんはどうしているのか話を聞いたことがあった。「このような体調で働いている人がいないから分からない」との返答だった。これが、難病患者の現実だと思う。

 

●理解されない病

膠原病に限らず、慢性疾患を抱えている人は元気に「振る舞う」人が多い気がする。本当は倦怠感や痛みを抱えていても、周りに気を遣い体調不良を隠して無理をしている人が多いのではないだろうか。

周りから見ると普通もしくは元気に見えるため誤解されやすい。そして「自分が神経質すぎるのだろうか」と思い悩む人は多いと思う。

また同じような病気で寛解された方にも理解されないことが多い。「気の持ちよう」と言われたこともあった。でも、どんなに治るための努力をしても病状が悪化する時もある。その時に一番悔しいのは努力を重ねてきた患者本人ではないだろうか。

また病気を抱えた人から「若いから良いわよね」と何度も言われた。きっと「将来は良くなる薬が出てくるから」という気持ちを込めて言ったのだと思うが、私には何が良いことなのか理解できなかった。体も動く、やりたいことがたくさんあって、これからキャリアを積んでいく途中での病気は、私にとって苦しみ以外の何物でもなかった。

「病気になったけど得るものがありました。幸せです。病気になって良かったです。」だなんて、とても思えなかった。

病気は辛い。それはどんな病気も同じだ。その人が辛いと感じたら、それは紛れもなく辛いのだ。それを否定する権利は、本人しか持っていない。

ただ、病気にならなかったら出会えなかった大切な人、気づけた友情、人の優しさ、いろんな世界を知ることはできた。それでも病気になりたいとは思えないが、全てがマイナスではなかったと信じたい(私は病気をオープンにしています。このせいで嫌がらせを受けたこともありましたが、ほとんどの人は理解を示してくれました)。

 

●セカンドオピニオンと転院

リウマチ科の元主治医が別の病院勤務となった。別部署に移っても入院中顔を出してくれたり、相談役として関わってくださっていたようだ。その元主治医がいなくなると聞いて、私は不安になった。その後、信頼していた当時の主治医も遠くの病院勤務になり、2016年4月リウマチ科の主治医が変わった。

そこから体調は悪くなっていった。熱は下がらず、腹痛があるので頓服の薬を飲む日々だった。痛みが酷く救急車で運ばれた時、転院を強く意識し始めた。

そんな中、私が初めて入院した時から担当してくれていた消化器内科の主治医が急にいなくなった。今後外来で今までの消化器内科の主治医に診てもらえる可能性が0と分かった時、転院を決意した。

ここで困ったことが1つあった。リウマチ科の元主治医の連絡先を知らなかったのだ。

元主治医が別の病院に移ると知った時、元主治医の部署まで行ったら忙しいにも関わらず話をしてくれた。その時に病院名を聞いていたのが良かった。その病院のHPを見るもアドレスはどこにも書いていなかったので、手紙を書いた。自分の近況と、最後に連絡先を書いた。「返事はこないかもしれないな」正直そう思っていた。

手紙を出して数日後、元主治医からメールがきた。時間的に、手紙を読んですぐ連絡をくれたのだと思う。そこには「じっくり時間がとれるセカンドオピニオン外来はどうか」と書かれていた。私の症状は複数の科で診てもらう必要がある。この病院で診ることができるのか、何の科を今の病院に残すのかいろいろと判断したいことがあるそうだ。また今の病院よりも遠くなるので、通院できるのかどうかも相談したかった。

セカンドオピニオンを受ける際に、一番ハードルになったのは現主治医に「セカンドオピニオン外来を受けたい」と伝えることだった。引越しなどではないので「今のあなたの治療方法に不満があります」と言っているような気がして気が引けたからだ。それでも元主治医に診てもらいたい気持ちが強く、書類、検査結果、薬の記録などを準備し、セカンドオピニオン外来を受診した。

久しぶりの元主治医の姿にホッとした。今までの経緯や現在の状況を詳しくヒアリングしてくれ、受け入れていただけることが決まった。ただ循環器内科だけはB大学病院に残しておこうという話になった(私が循環器内科の主治医を信頼しているのと、何かあった時に別の科でも受診できるようにとのことでした)。何かあったら循環器内科と連携を取るとも言ってくれて、「やっぱりこの先生に診てもらいたい」と強く思った。

セカンドオピニオンから2か月後の2016年12月末、私は無事に元主治医のいるC大学病院に転院した。

 

●転院後の体調

転院後、β-D-グルカン(カビのマーカー)が低くなり、生物学的製剤のヒュミラが再開となった。転院に伴って、一度詳しい検査がしたいということで1度だけ入院した。

2週間置きに自己注射をするヒュミラが、私の場合はわずか7-10日ほどで切れてしまう問題はあったが、本当に体調は安定していた。切れている期間は熱がでたり、腹痛があったりしたのですぐに分かった。その間は頓服薬を使用したり、ステロイドを増量したりして、病気と上手く付き合っていくことができた。

上手く付き合うことができたのは、間違いなく主治医のおかげだと思っている。わがままを言うことが多い、困った患者だと思うがずっと診てくれていて本当に感謝している。

 

●病気と妊娠

入社2年目、私は今の夫と結婚した。翌年に病気が発覚し、色々なことがあったが乗り越えてきた(若くて未熟な者同士、病気を受け入れるのにかなりの時間がかかりました)。

「子どもが欲しい」とずっと思ってきたが、度重なる入院、また妊娠には禁忌の薬を使っていたので、その願いは叶わなかった。

女医さんが主治医だった時があり、その時は同じ女性ということで妊娠のことも相談しやすかった。先生は気持ちを汲んでくれて、今すぐ妊娠は無理だけれど妊娠しても大丈夫な薬に、変更できるものは変更してくれた。それだけで有難かった。

そして今の主治医のC大学病院に転院し、病気と上手く付き合っていく内に「子どもが欲しい」と強く思うようになっていった。β-D-グルカンは陰性になることもあり、ステロイドは10 mg以下を維持していた。そんな時、会社は今までと比べると信じられない位忙しくなった。過度な労働禁止の診断書を出しているにも関わらず、残業時間は40時間を超えていた。体は限界だったのだと思う。数値は少しずつ悪くなり、私は2018年9月、ドクターストップがかかり休職することとなった。休職してからは体調が良かった。その翌月、妊娠が分かった。すぐに主治医と連絡をとったところ、使用を中止する薬剤名を教えていただきその日から中止した薬があった。その中には感染症が再発しないように飲んでいた薬も含まれていた。

妊娠すると免疫力が落ちるらしい。これは今の治療方針と同じなので、妊娠中はベーチェット病が軽快する人が多いそうだ。幸いなことに私も妊娠中は体調が安定していた。

現主治医のいるC大学病院は遠く、妊娠中何かあった時に対応できないため、産婦人科は以前のB大学病院にお世話になることになった。産婦人科はB大学病院のリウマチ科と連携をしないといけないとのことだったので、リウマチ科も受診することになった。担当してくれたのは元主治医だった。出戻りである。(喧嘩別れではなかったですが、気まずかったです。)ただ不安があったのでメインはC大学病院の現主治医にも通院(薬もこちらで処方していただいていました)するというW受診が続いた。しかし、妊娠3-4か月頃から体調が崩れてきた。頭が痛く、酷く怠かったのだ。

2019年1月、β-D-グルカンが100を越え(通常20以下)、私はB大学病院に入院となった。治ったと思っていた感染症が再発したのだ。

カンジダ(感染症)の薬は妊娠発覚を機に中止となっていた。入院すると、菌を同定することから始まった。今回は妊娠していたこともあり、受けられる検査に限りがあった。その中で検査を進めていったのだが、どこからも菌は発見されなかった。以前感染していた背骨の所にまだカンジダ菌がおり、そこが悪さをしていると仮説を立てて治療をスタートすることになった。

でも私は薬を拒否した。胎児への影響が心配だったのだ。成育医療センターに問い合わせてもらったり、国内外の論文を読んでも、妊婦に投与した例が少なすぎて情報が全くなかった。

妊婦には禁忌となっているがおそらく大丈夫と思われた薬を提案されたが、私はどうしても投与したくなかった。

それが産婦人科医の耳に入ったらしく、話に来てくれた。今のままだと陣痛を誘発してしまう可能性があること、私の炎症を抑えることが胎児を守ることに繋がるのだと説明してくれた。その後、この週数で産むことの胎児へのリスク等も勉強し、私は禁忌薬の治療を受けることにした。この時、β-D-グルカンは500を超え、リウマチ科の医師からは「もう待てない」と言われていた。この時、免疫を落としてしまうヒュミラは中止となっていた。

運が良いことにカンジダだったらしく、治療が始まってからβ-D-グルカンの値は下がっていった。ここで、ヒュミラを中止した影響が出てしまう。下血したのだ。ステロイド増量とヒュミラを再開してからは、ベーチェット病は落ち着いてくれた。これまた運が良いことに免疫力を落としたにも関わらず、感染症が悪化することもなく退院となった。約2か月間の入院だった。

その後、予定日より1か月早かったが、緊急帝王切開で子どもが生まれた。

 

入院を機にB大学病院にリウマチ科が自動的に移った状態となっていた。信頼している主治医のC大学病院に戻りたいと思っていた。ただ、遠方のため乳児を抱えて通院することが難しくなかなか転院できなかった。そんな中、CRPが上がり始めた。加えて強い腹痛も出てくるようになり、救急車で運ばれたこともあった。「もう限界だ」そう思い、出産から約3か月後、C大学病院へと転院した(診察券はすでにあったのと、先生のご配慮でスムーズでした)。

その後は、なぜか体調が安定した。熱が出ることはあったが、救急車で運ばれるほどの腹痛や下血もなかった。その後、C大学病院の体制が変わり家に少し近い分院に通うことになった。病院の所要時間は半分近くになり、通院の負荷が減って助かった。

 

●あとがき

闘病記を初めて書きました。この10数年を改めて振り返ると、本当にたくさんの人に支えられて今生きているのだなと思いました。この場を借りて尽力してくださった医療従事者の方々、支えてくれている家族、友人に感謝の気持ちを伝えたいです。

 

難病患者の問題としてよく挙がる就労、妊娠・出産についても触れさせていただきました。

現在、仕事は退職しています(病気や育児での問題ではなく、別の理由です)。

退職後、ホルモンの負荷試験を受けたところ、その少しの刺激でベーチェット病が増悪し、ステロイドを30 mgまで増量、生物学的製剤の変更をしました。(通常、ホルモン負荷試験でベーチェット病が悪化することは考えにくいそうです。ストレス過多状態だったため、わずかな刺激で増悪したと考えられています。)

免疫力が極端に下がった状態になり、新たにアスペルギルス、ノカルジア、非結核性抗酸菌症の感染症に罹ってしまいました。(2021年10月に判明し、現在治療中です。)

ベーチェット病の治療と感染症リスクのバランスが難しいなと実感しています。

 

妊娠、出産についてはB大学病院の先生、看護師さん、薬剤師さんに本当に尽力していただきました。5月に出産だったので、4月から異動した方々には出産後のご挨拶ができず残念に思っています。

出産後、多少の体調不良はありましたが、基本的にはベーチェット病のコントロールは出来ていました。

妊娠中、結果としてたくさんの薬剤を使用することになってしまいました。詳しいことは割愛させていただきましたが、成育医療センター、産婦人科や他科の先生たち、国内・海外の論文等様々な情報を集め、薬剤使用を決めました。私の場合は本当に情報がなく不安だったので、出産後はデータを成育医療研究センター等に送って欲しいと伝えています。データはあくまでもデータで、本人にとっては0%か100%の結果にしかなりません。でもデータがあることで安心する気持ちもあると思います。今不安に思っている妊婦さんの気持ちが少しでも和らいでくれたら幸いです。

 

最後に、この闘病記を書くことに背中を押してくれた愛ちゃん、家族、友人に心からの感謝を伝えます。ありがとうございます。

 

Misa

愛の種まき『おんころletter』web版(スクロールして読んでください)

※無断転載禁止

ご挨拶

『愛の種まき~おんころletter』にお越しくださいましてありがとうございます。

2021年9月

夕焼けの雲の下で 白血病と闘った瞳ちゃん

 「皆さん悩みってどこで作るのでしょう。知ってますか、それは心と気持ち!たった2つの見えないものがそんないやなものを作ってしまうのです」

瞳ちゃんは医療関係者や小児がんと闘う子どもたちに強いメッセージを残してくれたのです。
(筆者ジャーナリスト=
 元 共 同 通 信 記 者 
 石 井 克 則) 
 ※つづきは下へ 

漫画「心音ちゃん」

乙守心音(おともり ここね)16才。弟・響(ひびき)が交通事故に遭い、輸血によって命を救われた経験から、献血をするようになる。人助けというより、お礼のお菓子やジュースが嬉しい年頃。そこで出会ったのは……。
(案・監修 おんころ
作画・亜樹)
※つづきは下へ

まじさんのドナー体験記

これは、2018年3月に骨髄提供したドナー体験記です。  

血液難病と日々戦っている患者さんに想いを馳せる事で自分の日常の悩みなどはごく小さい事と思えるようになりました。

(筆者・まじ)
※つづきは下へ

● ご挨拶

web版『愛の種まき おんころletter』にお越しくださいましてありがとうございます。

昨年頃より、世界中で新型コロナウィルス感染が拡大し、私たちの生活様式に大きな影響を与えています。横浜プレガンド音心(以下・おんころ)も例外にもれず、イギリス館での骨髄ドナー登録啓発コンサートは2度の延期と無期限延期の末に中止となり、オペラ歌手をお呼びしてのチャリティコンサートも無期限延期となりました。

そして、会報誌『おんころletter』の発行も、当初の予定通りには進めらずにいました。

 
私は長らく、一人暗い土の中にいるような気がして落ち込んでいました。
気力が湧かないのです。
喜びの春はどこからやってくるのか……唯一、私を慰めてくれたものは音楽でした。

(今はじっと春を待つ時なんだ。いつか芽を出す種を大切に育てよう)

私は、創刊号に付けたタイトル『音心letter』を『おんころletter』に変更し、副題として「愛の種まき」という言葉を付けました。

内容はまじさんの「ドナー体験記」、元共同通信記者・石井克則氏の手記「夕焼けの雲の下で 白血病と闘った瞳ちゃん」、漫画「心音ちゃん」と盛り沢山です。
まじさんはこの提供体験の後まもなく、2度目のドナー提供をされています。(現在の法律上では、提供可能な上限回数です)

私にいのちの骨髄液を分け与えてくれたドナーさんの手紙に、こう書いてありました。


「あなたのドナーになれたことが誇らしいです。あなたもどうぞ誇りを持って生きてください」


誇りを持って生きるって、どういうことでしょう?
いつも考えています。

ただ、私なりに、 一日一日を大切に、誇りを持てるよう生きたいと思います。


皆様にとっても、今日という日が素敵な一日になりますように。

 

2021年9月 横浜プレガンド音心 代表・小野愛子

夕焼けの雲の下で 白血病と闘った瞳ちゃん

北海道滝川市の郊外に丸加高原があります。高原には白血病など小児がんの子どもたちのキャンプ場があり、針葉樹のほか桜やカツラの木も植えられ、初夏になると吹き抜ける風がひときわさわやかに感じます。5月下旬には眼科に広大な菜の花畑が満開となり、黄色い波がどこまでも続きます。
私は菜の花の季節、この高原のキャンプ場を訪れ、ここに来ることができなかった一人の少女のことを思い出したことを忘れることができません。その少女は、急性混合性白血病(骨髄性とリンパ性両方の性質を持つ急性白血病。発生割合は急性白血病全体の数%と稀といわれる)と闘った石川瞳ちゃん(仮名)です。

●小児がんと闘う子どもたちのキャンプ場

瞳ちゃんのことを書く前にキャンプ場を紹介しましょう。
小児がんは、子どもが罹患(りかん)するがんの総称です。毎年2500名~3000名が罹患し、発症率は人口5000人~10000人に一人(推計)程度、推計で20万人の子どもたちが小児がんなどの難病と闘っているといわれています。小児がんの子どもたちと家族のための医療ケア付きのキャンプ場は、丸加高原にある「公益法人そらぷちキッズキャンプ」(細谷亮太代表理事)です。米国の俳優、故ポール・ニューマンが開設した難病の子どもたちのキャンプ場(コネチカット州)をモデルにしたもので、北海道の大自然と親しみ、生きる力を得てもらおうと医療関係者や公園造りの専門家たちによって計画された日本初の施設です。
2004年から滝川市内でプレキャンプを始めており、この計画に対し市からは草原と森が広がる市有地16ヘクタールが無償提供され、さらに多くの企業や団体、ボランティアが資金集めや運営に協力し、2007年からキャンプ場の造成工事が進められました。その結果、医療棟、事務棟、食堂・浴室棟、宿泊棟が相次いで完成し、2012年から子どもたちの本格的宿泊キャンプが始まったのです。

●瞳ちゃんからのメッセージ

1回3泊4日のキャンプはこれまでに1000人近くが利用し、参加した子どもと家族は次のような多くの言葉を残しています。

 ・僕が病気になってから、お父さんの笑顔を初めて見たような気がする。 
 ・家に帰っても、1週間くらいキャンプのことはしゃべらなかった。もったいない気がして。
 ・再発して、再入院して、いやだったけど、またそらぷちに行けるのかなあ。
 ・家に戻ってから、もらったぬいぐるみがテーブルから落ちて、泣いちゃった。
 ・病気でも、キャンプに行けてみんなと遊べて楽しいこともあるんだ。
 ・ふだんは学校に行っても話せないけど、キャンプでは病気の話が自然にできた。
 ・大人になったら、ボランティアで来たい。話を聞いて、勇気を与えたい。
 ・だれにもこの苦しさは分からないと思っていた。でも、こんなに支えてくれている人がいるんだ。
 ・こんなにいろんなことができるんだ。しかも一人で積極的にチャレンジしている。
 ・お姉ちゃんがいなくなってから、息子の笑顔を初めて見た。家族で生きていこう。
 
残念なことに瞳ちゃんはこの高原を訪れることはできませんでした。キャンプ場が開設される前にこの世を去ってしまったからです。でも、瞳ちゃんは医療関係者や小児がんと闘う子どもたちに強いメッセージを残してくれたのです。急性混合性白血病を発病したのは8歳の時で、小学3年生でした。医師は幼い瞳ちゃんに直接病気のことを話したそうです。ですから、瞳ちゃんは入院すると死への恐怖と不安、親と離れる寂しさで泣き続ける日々を送りました。でも、容態が安定すると、辛くて苦しいのは自分だけではないと知り、病院の中で「悩み事相談会」を開こうと志してポスターを描き、それが張り出されました。
ポスターには「皆さん悩みってどこで作るのでしょう。知ってますか、それは心と気持ち!たった2つの見えないものがそんないやなものを作ってしまうのです。時によってうれしい幸せを運ぶことも、どんな悩みがあっても隠さずに言ってください。悩みを1つ抱えると、10個、20個、悩みが増えますよ。人生ひとつ、命ひとつ、悩みや困ったことを抱えて生きるのはもったいない。せっかくもらった命だから、楽しく、悩みや困ったことのない人生に」と書いてありました。

●ユーモアあふれる相談の答え

それを見た病気の子どもの親や医師、看護師などから、様々な相談があったそうです。ただ相談は秘密ということで、両親は瞳ちゃんから直接相談の内容を聞くことはありませんでした。しかし相談した人から瞳ちゃんから勇気をもらったと、後日内容を打ち明けられたそうです。それはユーモアあふれるものでした。以下はその一部です。

・小児がんの子どもの母親の相談。「お金が貯まらなくて困っているの」→答え「バスに乗ったつもりで歩き、つもり貯金をしましょう」
・がん病棟の医師の相談。「仕事が忙しくて困っています」→答え「高い給料をもらっているのだから、忙しくて当たり前。文句を言うな」
・同じく看護師の相談。「犬が夜吠えてうるさくて困っています」→答え「昼間ずうっと運動させて絶対に休ませなければ夜は疲れて眠るから吠えません」


瞳ちゃんは8歳11か月で亡くなりました。悩み事相談会のポスターには、2008年11月に千葉市で開かれた小児がんに関する国際シンポジウムの時に同時開催された絵画展で展示されました。シンポジウムを取材した私は、このポスターを見て心を打たれ、記事にしたのです。

※写真【そらぷち】

●娘に会いたい時には

私は2006年から「新・小径を行く」という題名の個人ブログを続けており、瞳ちゃんのことを何回か取り上げました。2012年10月にはそれまで全国で取材した人たちのことをまとめた「出会った人たちの言葉」を6回にわたって連載し、その3回目に瞳ちゃんのポスターの言葉も記しました。これに対し瞳ちゃんのお母さんからコメントが届きました。
 
《「石川瞳相談会」瞳の母です。瞳に会いたくて苦しくてどうしようもなかった時、涙でにじんだ画面の向こうに瞳がいました。一生懸命に生き抜いた瞳の心を受け止めて下さり、本当にありがとうございました。寂しくなると「新・小径を行く」を開いては癒され、頑張ってくることができました。もうすぐ8年前に、瞳が未来を信じて臨んだ骨髄移植の日がやってきます。その日の前日にパシフィコ横浜でがんの子どもを守る会のイベントがあります。絵画展には瞳が無菌室で書いたサンタクロースへの手紙を出品し、イベントには私が実際に送ったドナーさんへの手紙とその後のドナーさんへの想いを綴った手紙を出しました。瞳の作品と私の手紙の中身は「感謝」です。瞳の終末期、死後、カルテ開示まで様々なことがありました。悲しみよりも憎悪と悔しさと憤りで潰されそうだった私の心を助けて下さった存在のひとつに「新・小径を行く」がありました。担当医への、病院への、憎悪の感情が違ったものになった今、瞳の心を受け止めて下さった「新・小径を行く」に堂々と感謝を伝えられると思い綴らせていただきました。ドナーさんと同じでお会いしたこともないけれど、いつも、いつも、感謝しています。ありがとうございます》

後日、私の好きな百田宗治の詩「夕やけの雲の下に」とともに、このコメントを紹介しました。
百田の詩《遠い夕やけの空をみていると、ぼくはあの雲の下に美しい国があるとおもう。心のきれいな人ばかりが住んでいて、いつもたのしい音楽がきこえているような気がする。以下、略》
私は、この詩は瞳ちゃんたちを描いているように思えてならないのです。

●憤りから感謝へ

私は横浜のイベントに足を運びました。
絵画展には瞳ちゃんが亡くなる2か月前のクリスマスの描いた絵手紙が展示されていました。クリスマスツリーと小さな男の子、女の子、動物のクマが描かれ、

「サンタさんへ きれいな音色のオルゴールありがとう。大切にします。それとあとびょういんにまで来てくれてありがとう。おかしがなかったからあめ玉でがまんしてください。らい年はいっぱいおかしをおいておきます。2004年12月25日 石川瞳」

という、お礼の言葉が書かれてありました。
絵の下には瞳ちゃんのお母さんの「無菌室のクリスマス」という思いが記されていました。

「消毒のできるものしか持ち込めない無菌室……これは備え付けのペーパータオルに書いたサンタクロースへのお礼の手紙です。下血が止まらない身体で必死に手紙を書いていました。終末期、死後、そしてカルテ開示での病院の対応には不信感、憤り、憎悪の感情を植え付け、その感情は瞳が亡くなった現実を認めず、前に向かって進みたいと願う私の心を阻止し、苦しめました。瞳が亡くなって7年……。この絵を見る度に心ある医療関係者との優しい小さな思い出が蘇り、瞳の笑顔や頑張りが浮かびます。そして無償の愛を提供してくださったドナーさんの存在を思い出させ、天使になった瞳の親としてどう生きるべきかを考える時間を持つことができました。人を思う優しい心は『憎悪の光』を消し、悲しみや憤りで傷ついた心を『感謝』に変えることができる素晴らしい治療であり、薬です。『人を思う優しい心』を処方してくださった皆様……ありがとうございました。瞳ちゃん……ありがとう」

●瞳ちゃんとお母さんへ

愛するわが子が難病に侵され、幼い命を奪われたお母さんの悲しみが癒えるのは容易ではなかったことでしょう。この文章には瞳ちゃんのお母さんの悲しみと再生の歴史が込められているのではないでしょうか。私が瞳ちゃんとお母さんを知ったことは、生きるとは何かを考えるうえで特別な意味を持っています。そして、瞳ちゃんという直接会ったことがない少女は、今も私の心の中で大きな位置を占めているのです。

※写真【菜の花畑】

(筆者 ジャーナリスト=元共同通信記者・石井克則 2020年4月)

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【まじさんのドナー体験記】

こんにちは、まじと申します。
これは、2018年3月に骨髄提供したドナー体験記です。ドナー登録を考えている方や、コーディネート中の方へ向けて、少しでも参考にしていただき、背中を押せるようお役に立てれば幸いです。

 ●ドナー登録のキッカケ

私は地元の消防団で活動しています。
その際、人が亡くなってしまった火災現場などをいくつか体験し、命に対する意識が強くなりました。その後、救命講習講師資格を取り、人に教えるようになったことが直接のキッカケでした。他にも何か人の命に関わる活動が出来ないか調べ、骨髄バンクにたどり着きました。

 ●骨髄バンクからの適合通知

登録から半年後の夏頃、骨髄バンクよりオレンジの封筒が届きました。至急開封して下さい、と記載があったので(もしや)と思い急いで開封すると、「コーディネート開始のお知らせ」と書かれた紙が入っていました。
この時点ではまだ、提供は確定ではないのですが、確定したかのように嬉しかったです。さっそく必要事項を記入して返信しました。


自分の勤めている会社は外資系で休みが取りやすく、かなり融通が利くので、「確認検査はいつでもOK」と、かなり前のめりに回答したのを覚えています。
この時点で自分の住む県の骨髄バンク認定病院のどこで検査等したいかの希望を○付け方式で選ぶことができます。自分はモチベーションの高さをアピールしたかったので全部に○しました(笑)

※写真 【骨髄採取手術後の夜】 夕方からはかなり元気で何の体調不良もなく過ごせました 

●確認検査

通知が届いてから2週間後、近くの大学病院にて確認検査が行われました。
ここで初めて骨髄バンクのコーディネーターさんと対面、元気な九州出身の女性でした。色々気さくに話しかけてくれる方で一安心。エレベーターで血液内科の病棟まで行きました、そこからナースステーションの隣の面談室的なところでとりあえずコーディネーターさんから骨髄提供の流れの説明を受けました。

通知が来た時点からインターネットで色々調べていたので一通りの内容は知っていて、その確認になりました。採取で使われる針の写真を見た時は お、おう(^_^;)となりましたが、それよりも自分が人を助ける事が出来るかもしれないというモチベーションの方が高かったので、怖さなどは全く感じませんでした。

その後は調整医師の教授(高齢)が採血キットを持って登場、採血されたのですが刺した針を片手で固定出来ず、注射器を引いてる時に針がグリグリ動いてしまったり、素人目に見てもかなり下手だったと思います(^_^;)*後日看護師の知り合いに聞いたところ、教授クラスになるとめったに採血なんかしないから、下手だよ。とあっさり言われました。
でも、教授クラスの方がわざわざ採血して下さるんだからそれくらい我慢だよね……そして無事終了。

ここで採血した血液を患者さんの血と混ぜたり、さらに細かく調べて適合率を見るとの事。

 ●コーディネート終了

それからしばらくして骨髄バンクから通知が来ました。
ドナー候補者の多くは確認検査まででふるいにかけられるので、もしかしたらダメかなぁ、と思っていましたがやはりコーディネート終了となりました。 患者さん都合と記載があったので、自分よりも適合率の高いドナーに確定した、もしくは患者さんの容体で移植する調整がつかなかったか、などが考えられるみたいです。
少し燃え尽きた気持ちになりましたが、貴重な体験が出来たな、とまた日常生活に戻りました。

●適合通知 2回目

コーディネート終了からまた半年後の冬。
1回目の時のコーディネーターさんより電話があり、出てみると2回目の適合患者さんが現れたとの事でした、前回の確認検査の内容をそのまま使えるという事で、今回はその次のステップから進めますね、との事でした。

そして2週間くらい経った年末にまたまたコーディネーターさんから、あなたが最終候補者に選ばれましたとの電話がありました。

ついに来たかという気持ちと、体調面しっかりしないと、というプレッシャーでかなりドキドキしました。年明けから頑張ろうと気を引き締めたのを覚えています。


ちなみに、1回目のコーディネートの時の患者さんの体調が整ってまた自分に声が掛かったのか? それともこの短期間で2回適合するって事は、自分は日本人に多いHLAの型なのか? と疑問に思いましたが、骨髄バンクでは相手の患者さんの情報はほぼ頂けない為、そこは謎のままです。頂ける情報は〇〇地方の何十代の性別くらいしか教えて貰えません。

※写真【骨髄ドナーとして3泊4日過ごした個室】

 

●術前検診

年明けから半月後、確認検査とは別の大学病院で健康診断が行われました。
コーディネーターさんいわく、自分の職場に近いこちらの大学病院に調整してくれたとの事。ここだったら午前中に病院へ行って、午後には仕事に行けるので助かります。

年明けから禁酒と炭水化物制限、水分はミネラルウォーターのみ、毎週岩盤浴に通って基礎代謝UP等でダイエット開始しました。あとアブローラーで腹筋トレーニング。だらしない体で入院したくないですからね(^_^;)


健康診断は通常会社等で受けるものと一緒ですが唯一肺活量測定みたいなのがあり、キツかったです。思いっきり息を吐くんですがなんかグラフ?的な波形がよろしくないと何回もやらされるってゆう……自分の場合は3回やって、まぁいいかなぁ的な感じでなんとかOKでました。他の方のドナー体験記にもやはりこれはキツい書いてありました……

その後麻酔科で先生よりいくつか質問を受けて終了。

 ●自己血採取

骨髄採取時に貧血を起こさない為に採取後にまた自分の血を輸血するのだそうです。自分の場合は移植する患者さんが女性だった事もあり400㎖あればOKとの事。

これは患者さんの体重によって必要な骨髄の量があるらしく、それに伴ってドナーの骨髄採取量と自己血採取量も決定、という流れみたいです。 相手の患者さんが男性である程度体重があると400㎖を2回取る(2日間に分けて)事もあるそうです。


この時も午前中で終了、午後から会社。大体、各イベントは午前9時くらいから12時くらいの午前中で終わります。この次、病院に来るのは入院時。

手術の1週間前になると、患者さんは前処置といって自分の造血細胞を全て壊しドナーの細胞を根付かせる準備に入ります。 
自分の体調管理が患者さんの命に関わってくる為、ここからは常にマスク装備、週末は家からあまり出ない、等心掛けて過ごしました(多分ここまでする必要はないと思いますが……)

 ※写真【骨髄ドナーとして3泊4日過ごした個室】 

●入院

いよいよ入院です。
月曜の10時から入院でした。自分が入院した病院はドナーに個室が与えられます。他の患者さんとの生活時間帯が違うからドナーに負担をかけないようにとの配慮があるみたいです。
 入院案内で見たら一番安い個室でも1泊2万円でした(^_^;)これは患者さん負担のようなので申し訳ない……

身長体重測定、採血などであとは自由時間。
1日目の午後からかなりヒマでした。人生初めての入院なので落ち着かず、窓から外をずっと眺めていました。

その日の夜9時から飲食禁止、水さえ禁止でした。とりあえず十時過ぎには寝られました。

 ●手術日

当日は9時に部屋を出ると言われていたので、手術着と太ももまである長さのタイツを履いて準備します。T字帯は事前に買っておくとのことだったので準備していましたが、特に部屋では付けて行きませんでした。
時間になると看護師さんが迎えに来てベッドに寝かされた状態で手術室まで向かいます。

手術室に入るとミスターチルドレンの曲が流れていました。 患者のリラックス用? それとも先生のテンション上げる用? と思いましたが、何より曲がヘビーメタルとかじゃなくて良かったです、それだったらちょっと先生テンション高すぎて大丈夫か? 的な気持ちになるので(笑)

看護師さんにマスク的なのをつけられて深呼吸してからは記憶がありません。起きたら終わりましたよと声掛けられました。それから部屋に戻されましたがボーッとしていて手術部位の痛みやらは感じませんでした。 それよりも、手術中気管挿管されていたからか呼吸がしづらく、少し苦しかった記憶があります。

しばらくして、意識がはっきりしてきたので自分の状態を確認したところ、左手に点滴、手術部位は少し重たい感じ程度で痛みはありませんでした。なによりこのドナー体験記でみなさんが書かれている尿道カテーテルがありませんでした。 これを取った後が痛いと書かれてる方が多かったので気になっていましたが、自分の場合はT字帯の中に尿取りパッド的なものが入ってるだけでした。これはかなりありがたかったです。

しばらくすると、看護師さんが来て立ち上がりましょうと言われ、立ち上がって少し歩きました。大丈夫ですね、もう自由に歩いても大丈夫ですよと言われたので、こんなものかと思いました。 手術部位の痛みは、激しくスポーツした後の筋肉痛という表現がぴったり合います。重たいという感じが強く、痛みという程ではありませんでした。

 ●手術以降

手術日ですら夕方からはかなり元気で何の体調不良もなく過ごせました。
そんな状態でしたのでその次の日は元気過ぎて、むしろこんなに元気なのにもう1泊するのが患者さんに対して申し訳ない気持ちになりました。 
先生方は血液検査の結果を見て判断しているのだと思いますが、やはり患者さんのお金で個室に泊まらせてもらっているので自分はそういう気持ちになってしまいました。次にドナーに選ばれた時は大部屋でお願いしようと思います。 
*実際他のドナーさんの体験記だと大部屋だった方も割といるので病院によってそこの考え方違いがあるんだなと思います。

その後は予定通り3泊4日で無事退院しました。

●感想

今回の体験を通して、人として少し成長出来たかなと思います。
血液難病と日々戦っている患者さんに想いを馳せる事で自分の日常の悩みなどはごく小さい事と思えるようになりました。

これから生きていく上での大きな自信になったと思います。

●メッセージ

これを読んで頂いてる方はドナー候補の方か、もしくは興味がある方ではないかと思います。

これは自分個人の体験からの意見ですが、興味がある方は是非ドナー登録をお勧めします。ドナー候補の方に対しては、採取は大丈夫ですので心配なさらないで下さい、と伝えたいです。

 

移植についての手記で自分がそうだなぁと納得した手記を下記に紹介しますので良かったら調べてみてください。ネットで見ることができます。

骨髄バンク発行 My Life〜移植を越えて〜 より

「移植の日」虎ノ門病院 谷口医師

 

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
 
※写真【骨髄採取手術2時間後に撮影】 


(筆者・まじ) 

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横浜プレガンド音心とは

横浜を中⼼に⾳楽家やボランティア活動家が集い、 闘病中の患者⽀援および⾻髄バンクドナー登録啓発を⽬的に活動しています。
 治療のため無菌室や閉じられたカーテンの中から出られない⽅々へ向けて、 癒しや励ましを伝え、少しでも⼒になれたらという思いから、 ⾎液疾患者や⾻髄移植経験者およびドナー提供経験者らによって⽴ち上げました。
 プレガンドとはイタリア語で「祈るように」を意味しています。